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防空壕から見たB25 [戦争の記憶]

32ヶ月の私が確りと覚えている、68年前の明日、1942-04-18の米機東京初空襲。空襲警報のサイレンが鳴り、母、妹と私の三人は滝野川區田端新町の自宅の防空壕に避難した。壕の底に敷かれた木のすのこの下に水が溜っていた。どれ程時が過ぎたのか、突然ドカーンという爆発音がした。外の様子を見ようと壕から出た時、裏にある新町国民学校高等科の2階建て木造校舎の屋根すれすれにずんぐりした飛行機が旋回して消えた。まさか米軍機とは思わないから、多分手を振ったと思うが記憶は無い。

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材木商は統制で店は閉め、甲種合格の父は2度目の徴兵、兄姉は既に母の生家に縁故疎開。自宅を守っていた母は、初空襲後に妹と私を連れて旧増戸村に逃げた。材木商を営む本家の倉庫の一部が住宅に改築され、食料はニサさんと呼ばれた大本家の敷地の片隅にある庚申様の大きな石像がある建物に住む方が専属で調達してくれた。

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勿論、後ほど知ったのだが、隅田川沿いの旭電化と明治通り沿いにある赤レンガ(東京で一番古い変電所)に爆弾が投下された。東京大空襲に頭上を編隊で飛ぶB29 に比べるととても小さく、急降下して機銃照射する危険なグラマン戦闘機よりは大きかった記憶がある。赤い日ノ丸はない。

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戦後、赤レンガの池は格好の遊び場であり、旭電化尾久工場隣のデルタ造船所に早大艇庫があり、夏休みにはナックルフオアを漕いだ。

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日本本土初空襲:忘れず語り継ぐ…東京・荒川の住民

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100417k0000e040010000c.html


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村尾鐵男

North American B-25 Mitchel Bomber
太平洋上、日本近海へ接近した空母Hornetより陸軍所属B-25の16機が飛び立ち、東京を初空襲。空襲後、中国へ退避。しかし1機は針路を誤りウラデイオストックヘ。
中国では日本軍の飛行場へ着陸したB-25もあり、捕らえられた乗員は、捕虜ではなく、東京空襲に際し、国際法で禁止されていた非戦闘員を銃撃した犯罪人として処刑。
B-25:1700馬力X2、乗員6名、巡航速度370㎞/h, 航続距離4,000㎞
    約10000機が製造された。

この空襲により帝都防衛のための成増飛行場を建設。戦後、グランドハイツとなり、今は光ヶ丘団地。

by 村尾鐵男 (2010-04-18 07:49) 

ぼくあずさ

村尾鐡男さん Comment ありがとうございました。

by ぼくあずさ (2010-04-18 22:23) 

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