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免疫、そして人種差別(2) [軽井沢だより]

私の経験をかくと、こんなことがあった。

アメリカの工場のカフェテリアで昼食を取るとき、目の前の座席に黒人が座る。

その皮膚の色は、生易しい黒ではない。黒人と言っても、その皮膚の色は、かなり差がある。食欲が減退しなかったといったら、嘘になる。

もっとも相手の方も、私を見て、食欲がどうだったか、知る由も無いが。 

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半年ばかり、工場の教室で、勉強した。生産技術を学んだ。会社は大学での専攻した学問は信用していなかった。これは、少なくとも、私にとっては、正しい判断である。話がそれた。隣に座っていたのは、黒人であった。この経験は、ある程度、私に免疫を与えたように思う。

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話を急ごう。差別感情はどうしようもない。

しかし実際に差別をする、差別行動をするというのは、一考を要する。そんなことを言ったって、脳の働きとは別な反応なのだから、抑制しようがない、といったら、これはもうあきらめるしかない。ひょっとしたら、これが、創造主が人間、あらゆる生物に与えた、機能なのかも知れない。 

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ひょっとしたら、殺戮行為もこの範疇に入るのかも知れない。だから、人類は戦争を止められないのだ。これは、実に絶望的な、見方といっていいだろう。夢も希望もなくなる。悲観主義と取られるかも知れない。 

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人類は思っているほど、高等でないと、言ったら間違いだろうか?

しかし、あえて言わして貰うなら、このような認識を持って、現状、未来を考えるのと、はじめから、人間は理性によって生きているのだ、考える葦なのだと、楽観的に考えるのでは、将来の生き方に差が出るのではないか。 

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とまれ、免疫意味論をもちだして、感情は理性とは、別だ、コントロールできないというのは、牽強付会も極まれりで、これでは、感情は、脳の機能とは関係なく、身体の生理反応なのだということになってしまう。免疫反応だといっているのか、となる。それでは、行き過ぎであるとすれば、脳の中には、二つの自己があるとしたら、どうか。そうすると、自己は3個になり、ほとんど自己が無いのと、同然だ。 

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どれか一つの自己が時々刻々優位に立っているのか。

いつも理性が優位にある人は、いつも正しい判断をしているか。そんな人はいないし、お付き合いして、楽しいとも思えない。どうも、自己とは、何なのか、迷うのみである。

以上、迷論を述べた。 

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http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20081028/p1

しかし、ここではっきりしたことは、個体の行動様式、いわば精神的「自己」を支配している脳が、もうひとつの「自己」を規定する免疫系によって、いともやすやすと「非自己」として排除されてしまうことである。つまり、身体的に「自己」を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである。脳は免疫系を拒絶できないが、免疫系は脳を異物として拒絶したのである。

【『免疫の意味論』多田富雄(青土社)

(完)                                                            by I.Watanabe


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ぼくあずさ

私が住むフリューレン村大字西柴がYokosukaに近いこともあり、偶に若い日本女性に手をひかれた黒い肌をした幼子を見かける。日本での生活の中で受ける人種差別を考えると、罪作りな女だと軽蔑・叱責したい気持ちになる。これが米国であれば、普通のことで気にも留めない。これが免疫なのか、人が住む社会の違いなのかは考えたこともなかった。

私が黄色人種であることを、咄嗟に認識したことが2回ある。オランダの海水浴場とロスの市営バスであった。

娘二人の学習の意味もあり、米独仏台中韓の人を度々自宅に招いた。彼女等は今の処、外国に特別な興味を示さない。むしろ、1週間ほど訪ねたバリ、香港、ソウルでの現地の人の親切さに触れたことが、記憶に残っているらしい。

幸いか、鈍感なのか外国で人種差別で嫌な経験はない。例外は韓国、いつ突然怒り狂い喧嘩を売られるか、常に細心の注意をしていた。怨み3千年と言うが、韓国のweb newsを長年観察していると、恨みの対象は中国には皆無である。反日は政権運営・外交の手段であり、教育・マスコミが変らない限り継続する。反日と嫌韓は表裏一体をなす。

話は逸れるが、非難を承知で云えば、金儲けの為の新興宗教は論外として宗教はその土地に根付いていたものは、それなりの価値がある。排他的な考えの宗教は日本には馴染まない。また、宗教は概して差別解消には非力である。

また、世界一周さえも、意思と気力さえあれば、誰でも出来る時代になり、豊かさと自由を求めて、人は移住する。益々、人種差別が引き起こすトラブルの可能性が高まる。これは政治家が掲げる「友愛」なる呪文で解決できるほど簡単なものでない。
by ぼくあずさ (2009-08-04 12:09) 

村尾鐵男

I. Watanabeさん、拝読しています。笑いながら話すことのできない心に重い難問です。私が初めて異民族の世界へ踏み込んだのは五歳のときで、両親に連れられて北京で生活しました。北京では直ぐに日本人幼稚園に入れられたのですが、母が「北京まで来て、日本人同士だけで固まっていては、何のために北京へ来たか判らない」との思い切りで、幼稚園は三日で辞めさせられ、家の前にあった中国人の床屋の娘と毎日遊んでいました。ある日、母親に連れられて、中国服を着込んで北京駅まで行ったのですが、日本人から石を投げられました。「支那人のくせに、着ているものが良過ぎて、頭が高い」との嫉妬です。
大学に通っていた頃、結婚相手は中国人女性にしようと密かに決心していたのですが、政治情勢ままならず、日本人と結婚しました。
仕事でナイジェリアへ行った折、周りが総て本物、本場の黒人で圧倒されました。差別を受けるとすれば私の方ですが、まったく杞憂に終わりました。表現は良くありませんが、昔の黒い電話機、Black Metalicの電話機ですが、まさにあの色と輝きを持った黒人達に囲まれて、このような世界もあるかと、40歳半ばの男が大いに戸惑いました。
私はアメリカでの体験が少なく、アメリカでの人種差別を語る資格がありませんが、中国、台湾、フィリピン、マレーシア、インドネシア、バングラデッシュ、ネパール、ナウル、カンボデイア、その他多数の開発の遅れた諸国を歩き、異民族との接触を重ねましたが、差別を受けたことはなく、叉、私も幼児体験が心底にあるためか、何のわだかまりもなく構えることもなく付き合えました。

by 村尾鐵男 (2009-08-04 22:17) 

大嶋

人種差別、難しいテーマです。 理性と感情の間の葛藤でしょうか。
私の限られた米国の経験でいうと、違う環境に適応するという要素も大きいと思います。 それを学習というか、理性が感情に勝つというのか。
村尾さん、幼児体験を指摘されていますが、重要な要素だと思います。 日本の移民開国で行くのか、教育を含めた長期プランが必要でしょう。
中国、韓国での教科書問題では為政者の日本に対する考え方、記述の仕方で、日本人に対する先入観が形成されます。 日本がほぼ単一民族で世界では珍しい国であることが、人種差別を自分の問題として考えられない難しさがあります。 
理性と感情、いま米国の民主、共和の批判合戦を見るにつき、一見理性で論戦しているように見えてもその底には好き嫌いがいつも見え隠れします。
大嶋
by 大嶋 (2009-08-04 23:37) 

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