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武田信玄公の灰塚 [フリューレン村だより]

                by ぼくあずさ

織田と徳川連合軍による長篠の戦いと甲州成敗に私のご先祖
杉浦氏は戦の成行きを見守っていた。

時代は三浦軍団を起源とする杉浦氏は蟹江城攻略で武勲を立て
たが・・・明智光秀により織田信長が殺され、時代は豊臣から
徳川へと移り変った。
徳川三・四代将軍の時代には勘定奉行へと昇格した。
武田氏の支配地域は徳川幕府直轄地となり杉浦一族は信州へ
進出。

私の曾祖母野崎スミ(旧姓杉浦)が平安時代末期に信州伊那
より武蔵の国伊奈村中平に移住して来た12家の一つ野崎の
大本家に嫁つぎ二人の息子を生んだ。次男の玉之助が私の祖父。

終戦の年の1945年に96歳に亡くなった野崎スミは薩長軍の
捜索の目を逃れての生まれ育った池之端畔の家老屋敷から
伊奈村への避難行は孫の母も一切聞いていない。
伊那市役所に問い合わせたが伊奈村に移住した12家に
ついて情報は得られず。

以下は私の推論に過ぎないが徳川幕府崩壊時に北町奉行と勘定
奉行を務めていた杉浦一族の情報網から新選組に護衛させ水の
乏しい阿伎留野原の西のドン詰まりの伊奈村中平で唯一水源を
もつ野崎家に杉浦スミを嫁がせる決断をしたのではないか。

日露戦争で武勲を挙げた帝国陸軍の少将がお忍びで杉浦スミに
会いに来たという。息子の玉之助は林業で財をなし、
孫の叔父と曾孫の私に杉浦家所縁の名前「しょうじ」と
命名した。

杉浦一族の男子は徳川慶喜と共に駿府へ移住。
月給350円を支給された家老待遇でしたが、杉浦譲は明治新
政府の大隈重信公の大抜擢で東京に戻り郵政省の基礎を作った。

武田信玄公の灰塚
http://www.geocities.jp/komeijim/3gokan/life_3gokan/shingen/shingen_01_01.html
天海は光秀だったのか?!!
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide10.htm

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