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東京初空襲 [戦争の記憶]

                                                       by ぼくあずさ

当日、昭和17年4月17日のことです。父は今の北朝鮮軍都羅南で兵役
に就いており、東京田端にある家業の材木屋は統制で店を閉めていま
したが留守を守っていた母と私とすぐ下の妹のYちゃんは自宅の防空壕
の中にいました。壕内は水が溜まりスノコが敷いてありました。
昼ごろに大きな爆発音がしたので壕から外へ飛び出た処、裏の小学校
の校舎すれすれに飛び去る戦闘機を見ました。

Wikipediaで調べるとB25による東京初空襲でした。後で聞いた話では
近くの赤レンガ(東京初の変電所)と熊の前の旭電化に爆弾が落とされ
たそうです。

この事件後に末の妹Eちゃんを身ごもっていた母はYちゃんと私をつれて
西多摩郡増戸村にある生家の屋敷内の倉庫を改装した2階屋に引っ越
しました。2年ほど前から疎開していた兄と姉に再開しました。二人は
増戸国民学校に通っていました。

3月10日の東京大空襲で私が生まれた東京田端の家は焼けました。
夜中になっても阿伎留野の原の先が音もなく燃えてました。恐ろしい
光景でした。天皇陛下の玉音放送は庭に集った大勢の人に交じって
聴きました。戦争に負けたことを知りました。その日を境に空を覆うよう
なB29の大編隊は飛ばなくなりました。その年の6月、栗の花が濡れた
地面に落ちる頃、突然父が復員してきました。持病の胃潰瘍が悪化した
為でした。甲種合格の父は3回目の兵役でした。末の妹Eちゃんが
誕生、だが父との楽しい日々は長くは続きませんでした。

材木屋を再開し焼け野原の田端に建てたバラックで昭和22年3月に
他界しました。子煩悩な優しい父、母と子供5人を残しての無念の死で
した。朝夕、明冶通りを進駐軍の戦車が隊列を組んで示威行進してい
ました。 私は滝四小3年に転入しました。校舎も戦災で焼失していた
ので焼け残った田端中学で間借りでした。

商売は繁忙を極めました。材木は母の生家から代燃トラックや父が
勤めていた武市(日本一の材木問屋)時代の同僚(製材工場の長男)
たちの栃木や福島から汽車で田端駅へ、そこから馬車で搬入される
やすぐに売れて行きました。戦前からのお客の棟領方も呼ばれました。
すべて亡くなった父が意図した通りに上手く行きました。

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コメント 2

niki

私の亡き祖父母も、よく戦中の話をしてくれました。
祖母は「お前は大空襲の日生まれだね」とよく言っていましたが、それがどんなものか良く知りませんでした。

爆弾が雨のように降り注いでくることは、想像を超える恐怖です。

お母様は身重で子連れでの避難、、大変なご苦労だったことでしょう。
お父様は戦争から戻ってこられてよかったですね。

本当に大変な時代だったと思います。
by niki (2015-08-15 08:44) 

ぼくあずさ

nicceとコメントありがとうございます。
3月10日のお生まれですか。私以上の年齢の者には忘れられない
日です。父母の年代の方々は想像を絶する苦労をされたと思います。
by ぼくあずさ (2015-08-15 09:08) 

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