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インテリボヘミアン(2) [インテリボヘミアン]

                                                      by ぼくあずさ

私のボヘミアン的な性格は縁故疎開先の旧増戸村で増戸国民学校
入学当時(昭和20年4月)から見られた。
同級生の身体のでかい裏の小作の勘ちゃんを連れて?隣村の
平井の宿へ出かけた。阿伎留野の原っぱの中を行く路が櫛状に
二つに伎れた処で泣き出した勘ちゃんを宥めるのに苦労した。
平井川は秋川に比べようもなほど水量が少なく、宿ではお目当て
の凧市は開いておらず村人にも会わず、詰まらない土地でした。
道端の井戸で水を汲んで勘ちゃんと二人代りばんこに喉を潤し、
空腹を紛らわした。

何の手柄話もないまま泣き虫勘ちゃんを連れて疎開先に帰ると
大勢の大人たちが駆け寄って来た。

ぼく「泣くのはやめろ」
大人たち
「坊や何処へ行って来たのか?」
ぼく「満州まで行って来た」との名セリフは暫く叔母から
聞かされた。当時のぼくのあだ名は「のざきの坊や」でした。

中学の若い英語のK先生から「ボヘミヤンボーイ」という言葉を
繰り
返し聞かされた。天台宗の寺の次男に生まれた彼は夏休みに
比叡山で修業を済ませ、青竹を担ぐことなく(僧侶になる修業に
合格)帰京した。

私がFDの川崎工場で蒸気タービンの設計をしていた1965年
の夏休み9泊10日の旅をした。
テントを担ぎ大きなザックを背負っての初めての海外
Wanderungでした。台中の中山公園のボート池畔でキャンプの
夜、スコールに見舞われ浸水、ボート監視員の張君
(市の有力家族の一員)に救出されヤモリが啼く見張り番小屋で
一夜を過ごしました。今思うとよくも長い休暇をとったものです。

私がフリューレン村の住人であった1970年のクリスマス休暇、スイス・グリンデルワルトのJugendherbergで一人の日本人の若者が英語で演説していた。彼の欧州でのボヘミヤン生活を聞く内に私と同じ区内の赤羽に生まれ育ったことが分かりました。
まさかと思いながらK先生の話をすると、なんと若者は私の中学
の後輩でした。その後会う機会はありません。
どうしているだろうか。

今年の2月1日までの3ヶ月間の磯子リハビリセンターで
一時期同室であった私がインテリボヘミアン氏と名付けた方は
西ドイツ・ハンブルクで日本企業に勤めその後ウイーンでテキヤ
をして計4年半を過ごしたという。
彼の話の細部まで私の記憶する西ドイツでの生活に一致して
おり、誇張もない。しかも彼の兄は滝野川第四小の私の先輩で
した。

インテリボヘミアン氏と海自大型ヘリパイロット氏を囲んだ
お喋り会を始め、私の退所前には6名ほどの患者仲間が夕食後に
集まりました。西病棟一番の自主トレに熱心な久米の仙人氏が
退所後の連絡先になっていますので集まりがあれば連絡がある
ことになっていますが、一度京急日出町駅集合でお花見の会の
計画がありましたが、生憎の雨天で流会になりました。
今頃、どうしているのか時に思い浮かべることがあります。

友人P.Messerschmidtはドイツ人の旅好きを遥かに超える
現代版ボヘミアンです。フラウが露語の教師をしていたことから
旧ソ連邦や東欧諸国への旅の他に度々大型客船で船旅を楽しんで
います。香港まで来ましたが横浜には未だ来たらずです。
カテゴリー「Berichte aus Badkoestrich」をご覧下さい。

ポッダムの森.jpg私はチェコ・ボヘミヤ地方を時間を掛けての
W
anderungとベルリン・ポッダムの森再訪をしたいと漠然と考えていましたが、病後のリハビリ生活を余儀なくされて今では計画の立てようがありません。何時までも健康で居られないことを失念していました。
Es ist recht Schade!

最近の横暴な中国には御免被りますが、私が知る江南の春や黄山での親切な中国人たちの思い出、何時か中文再学習がてら気儘に歩いてみたい、天台山を訪ねたいとの思いは萎えて来ました。


西行と定家 安田章生 [自宅静養]
http://dorflueren.blog.so-net.ne.jp/2014-02-27
新藝術家の眼に映じた支那の印象 芥川龍之介
http://homepage2.nifty.com/onibi/singei.html
純粋はちみつ
http://flueren.blog.ocn.ne.jp/dorf_flueren/2007/05/post_0bb6
葛城ユキボヘミアン - YouTube


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コメント 2

村尾鐵男

誰でも、子供の頃の思い出は、歳経るに従って鮮明になり、大切にしたくなる不思議な現象です。特に、子供時代の仲良し組や遊び相手が懐かしくなります。
当時の阿伎留野や増戸村は想像の限りですが、冒険少年には格好の遊び場だったと思われます。
by 村尾鐵男 (2014-05-08 10:59) 

ぼくあずさ

村尾さん
ご想像通りの愉しい土地でした。最後まで遊んでいるのは私一人でした。
遊び仲間たちは時間になると家の手伝いをするようでした。危ない処は
がき大将が教えて呉れました。
by ぼくあずさ (2014-05-08 12:43) 

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