「戦後社会を透視した3人の男」の紹介 [明治維新胎動の地、萩]
By N.Hori
谷沢(たにざわ)永一著「歴史の読み方 人間の読み方」(知恵の森文庫、2000年)は、日本史における4大「乱世」は、「応仁の乱」「明治維新」「第2次大戦後」「第1次石油ショック以後の現代」として、標題の章を書いています。知らない人も多いと思いますので、概要を紹介します。
石橋湛山
まず、戦後社会を考える上で、筆頭に置くべき人物は「石橋湛山」(稲門の大先輩)である。戦前は東洋経済新報社に籍を置き、シベリア出兵に反対するなど鋭い論陣をはった自由主義者で、戦後は大蔵大臣、通産大臣から首相になったが、就任3か月で発病し退陣した。
石橋湛山が第一の人物であるとする理由は次のエピソ-ドによる。湛山は昭和20年8月15日、終戦を迎えるや、ただちに東洋経済新報に論文の掲載を開始した。その論説の主旨を従前からの所説を加味して敷衍すれば概略次の通り。
「私の計算によれば日本の植民地経営の収支はまったくの赤字であり、植民地の膨張というものは単に地図上に色を塗っただけのことであって、実際は全部持ち出しだった。それに加えて、日本の国力からすれば、まことに過大な陸海軍の装備兵力を持ち、それを全部ドブに捨てるような無駄使いをした。
さて、ここで眼を転じて見れば、このような植民地経営のロス、陸海軍におけるロス、この莫大なロスが全部なくなったわけである。加えて日本人は高度な近代産業の技術と生活感覚を身につけており、伝統的に勤勉である。その優秀な民族がこの4つの島に閉じこもったわけであるからこれから日本の前途は洋々たる未来が待っているのみである」
この論文を読んだ小汀利得が驚いて東洋経済新報に飛んで行って「お前さんの親分は世に並びない傑物だが、とうとう敗戦で頭がおかしくなった」と言った。小汀利得は当時日本経済新聞の編集局長をやっていた人物である。そして湛山とは30年来肝胆相照らす親友であった。その人間がこう言わざるをえないような時代的雰囲気だったわけだ。敗戦。一面の焼け野原。当然であったろう。
ところが歴史は湛山の論文の通りになった。彼は単に予言しただけでなく、30年来の自説を今度は政府の重職に就いて実行していくのであるが、その先駆性は瞠目すべきと言わざるをえない。残念なのは、首相就任後、間もなく発病して退陣してしまったことです。
西山弥太郎
次に、戦後の混乱期に重大な役割を担った人物に川崎製鉄社長の西山弥太郎がいる。彼は、茫々廃墟の時代にいち早く川崎沖に銑鉄鋼鉄一貫生産の大溶鉱炉を建設する構想を打ち上げ、当時は東の東宝、西の川崎といわれた川鉄労組を相手に、また一方では大蔵省、日銀を相手に八面六臂の活躍をする人物であった。彼が万難を排してこの大溶鉱炉の建設に着工したことは、日本の経営者にどれだけ大きな勇気を与えたか、はかり知れない。
西山弥太郎が大きな花火を打ち上げると、日本全国の経営者がいっせいに設備投資を開始する。折からの朝鮮戦争が、朝鮮の人には気の毒であるが、日本にとっては真帆に追い風を受けたような幸運になった。順風満帆、日本は猛烈なスピードで設備投資を展開していった。
勝つか負けるかの大賭博を全国規模で打っているような景色であった。
下村治
この大バクチの予想を冷徹に計算して結論を出した人物がいる。大蔵省で冷や飯を食っていた下村治である。彼は窓際族だったからヒマだけはある。その時間を有効に使うところが偉人の証拠だが、全国でいま行われている設備投資がいっせいに稼働したらどういうことになるか綿密に割り出したのである。これは大変な高成長になるという結果が出た。
下村治のこの驚くべきカルテを田村敏雄がキャッチして池田勇人にコンコンと教えた。彼の打ち出した「所得倍増論」は、この下村の提出した日本経済のカルテがもとになって作られたものであった。当時はその実現を素直に信じた人間は少なかったが、歴史がまたもや下村治という先駆者の予言通りになったことは言うまでもない。
谷沢(たにざわ)永一著「歴史の読み方 人間の読み方」(知恵の森文庫、2000年)は、日本史における4大「乱世」は、「応仁の乱」「明治維新」「第2次大戦後」「第1次石油ショック以後の現代」として、標題の章を書いています。知らない人も多いと思いますので、概要を紹介します。
石橋湛山
まず、戦後社会を考える上で、筆頭に置くべき人物は「石橋湛山」(稲門の大先輩)である。戦前は東洋経済新報社に籍を置き、シベリア出兵に反対するなど鋭い論陣をはった自由主義者で、戦後は大蔵大臣、通産大臣から首相になったが、就任3か月で発病し退陣した。
石橋湛山が第一の人物であるとする理由は次のエピソ-ドによる。湛山は昭和20年8月15日、終戦を迎えるや、ただちに東洋経済新報に論文の掲載を開始した。その論説の主旨を従前からの所説を加味して敷衍すれば概略次の通り。
「私の計算によれば日本の植民地経営の収支はまったくの赤字であり、植民地の膨張というものは単に地図上に色を塗っただけのことであって、実際は全部持ち出しだった。それに加えて、日本の国力からすれば、まことに過大な陸海軍の装備兵力を持ち、それを全部ドブに捨てるような無駄使いをした。
さて、ここで眼を転じて見れば、このような植民地経営のロス、陸海軍におけるロス、この莫大なロスが全部なくなったわけである。加えて日本人は高度な近代産業の技術と生活感覚を身につけており、伝統的に勤勉である。その優秀な民族がこの4つの島に閉じこもったわけであるからこれから日本の前途は洋々たる未来が待っているのみである」
この論文を読んだ小汀利得が驚いて東洋経済新報に飛んで行って「お前さんの親分は世に並びない傑物だが、とうとう敗戦で頭がおかしくなった」と言った。小汀利得は当時日本経済新聞の編集局長をやっていた人物である。そして湛山とは30年来肝胆相照らす親友であった。その人間がこう言わざるをえないような時代的雰囲気だったわけだ。敗戦。一面の焼け野原。当然であったろう。
ところが歴史は湛山の論文の通りになった。彼は単に予言しただけでなく、30年来の自説を今度は政府の重職に就いて実行していくのであるが、その先駆性は瞠目すべきと言わざるをえない。残念なのは、首相就任後、間もなく発病して退陣してしまったことです。
西山弥太郎
次に、戦後の混乱期に重大な役割を担った人物に川崎製鉄社長の西山弥太郎がいる。彼は、茫々廃墟の時代にいち早く川崎沖に銑鉄鋼鉄一貫生産の大溶鉱炉を建設する構想を打ち上げ、当時は東の東宝、西の川崎といわれた川鉄労組を相手に、また一方では大蔵省、日銀を相手に八面六臂の活躍をする人物であった。彼が万難を排してこの大溶鉱炉の建設に着工したことは、日本の経営者にどれだけ大きな勇気を与えたか、はかり知れない。
西山弥太郎が大きな花火を打ち上げると、日本全国の経営者がいっせいに設備投資を開始する。折からの朝鮮戦争が、朝鮮の人には気の毒であるが、日本にとっては真帆に追い風を受けたような幸運になった。順風満帆、日本は猛烈なスピードで設備投資を展開していった。
勝つか負けるかの大賭博を全国規模で打っているような景色であった。
下村治
この大バクチの予想を冷徹に計算して結論を出した人物がいる。大蔵省で冷や飯を食っていた下村治である。彼は窓際族だったからヒマだけはある。その時間を有効に使うところが偉人の証拠だが、全国でいま行われている設備投資がいっせいに稼働したらどういうことになるか綿密に割り出したのである。これは大変な高成長になるという結果が出た。
下村治のこの驚くべきカルテを田村敏雄がキャッチして池田勇人にコンコンと教えた。彼の打ち出した「所得倍増論」は、この下村の提出した日本経済のカルテがもとになって作られたものであった。当時はその実現を素直に信じた人間は少なかったが、歴史がまたもや下村治という先駆者の予言通りになったことは言うまでもない。
現在も乱世ですが、下村治さんのようなブレーンを活用して石橋首相のように、野田首相が日本経済のデフレ脱却、再成長政策を期待したいものです。
川崎製鉄は、紛らわしいのですが、地名の川崎、即ち、神奈川県川崎市に由来するのではなく、天保八年(1837年)に薩摩で生まれた川崎正蔵の人名に由来します。
川崎正蔵は東京築地に川崎造船を設立しますが、この本拠を神戸に移して、川崎造船が川崎重工業となり、その製鉄部門が戦後に独立して川崎製鉄となり、今はJFEです。
N. Hori さんの紹介文にある西山弥太郎の高炉建設は千葉県五井に立地を求めています。私達も学生に頃に見学に行った大工場です。
by 村尾鐵男 (2012-05-26 07:35)
二つ目のコメントです。
私は、土光敏雄氏を四人目として加えたいと思います。
明治29年生まれ簿の光敏雄は石橋湛山(明治17年生)と下村治(明治43年生)の中間の世代ですが、経団連会長として戦後復興への貢献度は大です。
by 村尾鐵男 (2012-05-26 15:33)
アルマさん、海を渡るさん、nikiさん,rtfkさん,niceを有難度うございました。
村尾さん、コメントを有難度うございました。私も学生時代、授業の工場見学で、村尾さん達と一緒に川鉄千葉工場を見学しました。
by N.Hori (2012-05-26 18:08)
馬爺さん、niceを有難度うございました。
by N.Hori (2012-05-26 20:09)
一貫した論陣を張る政治家、
大風呂敷を広げる経営者、
御用学者と対決する官僚。
共通するのは、「志」だと思います。
by 早稲田大学鋳物研究所スキー部長 (2012-05-27 05:37)
早稲田大学鋳物研究所スキー部長、コメントを有難度うございました。
by N.Hori (2012-05-27 15:42)
こんばんは。
ご訪問にコメントまでありがとうございます。
いつも楽しく拝読しております。
自然がいっぱいの来島海峡をブログで紹介できたらと思っています。
これからもよろしくお願いします。
by 海を渡る (2012-05-27 20:22)
土光敏夫さんを4人目に加えることに私も賛成します。「メザシの食事」には演出もあったらしいですが、造船疑獄で検察庁も「このような生活をしている人なら、無罪だろうと起訴を断念した、清貧な生活態度で有名だった、IHIや東芝の社長でした。
by N.Hori (2012-05-30 17:59)
あゆさこさん、niceを有難度うございました。
by N.Hori (2012-06-02 22:27)