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玉縄城築城500年 -2/2 [時々懇]

 
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1新編相模国風土記稿:

(城廻村)玉縄城蹟:(略)永正九(1512)年十月、北条新九郎入道早雲
の築る所なり。
寛永北条家譜曰:北条新九郎長氏、永正九年十月、相州玉縄城を
築く。按ずるに今年八月北条早雲、三浦道寸が居城大住郡岡崎城を
陥れ、北るを追て、三浦郡に至り、住吉城をも攻落せしかば、道寸遂に、同郡新井城に退去せりよりて、早雲、国中を併呑せしかば、当城を築しなるべし。

大永・享禄の頃は北条左馬助氏時(氏綱の弟にて、庵の兄と云う。北条幻庵の兄と云う。初葛山備中守が養子となり、後北条氏に復す居城たりしと伝う。


<意訳>
城廻村の玉縄城址:(略)永正九(1512)年十月、北条早雲(伊勢宗瑞)が築城した場所である。寛永北条家譜によると、北条新九郎長氏(伊勢宗瑞)が、永正九年十月、相州玉縄城を築城する。
推察すると、本年八月、北条早雲は三浦道寸の居城である大住郡の岡崎城を占拠し、北方へ逃走する三浦氏の軍勢を追い、最終的に三浦郡へ赴いて住吉城を開城させ、道寸は三浦郡の新井城へ退去した。

 
こうして宗瑞は相模国中を平定するために、玉縄城を築城することとなった。
大永・享禄(152131)の頃には、北条氏時(氏綱の弟で、幻庵の兄。初めは葛山備中守がの養子となり、のちに北条氏へ戻る)の居城であったと伝えられる」。



2歴代古案(米沢市上杉博物館所蔵)


    本目(牧)四ヶ村制札
一、当方家来者、諸事若有申者ハ、此制札を見せられ、横合之義申
      者を此方へ可有同道、
一、 諸奉公事、直ニ可申合、仮?初ニも、自他所申者ニ、其使を此方 
   へ可有同道者也、倚如件
   永正九(1512)年十二月六日   
                           宗瑞(北条早
                                氏綱(北条氏綱)                平子牛法師丸(房長)殿


<意訳>
   「本牧の四ヶ村に対する掟書
一、吾らの家臣(=北条氏家臣)に、この制札をみせて、もしそれ
      以外の無理難題を
申す者があれば、吾らのもと(=小田原)まで
      連行しなさい。
一、諸役を賦課する場合には、吾ら(北条氏)の方から直接命じるから、
     それ以外の者でそのように命ずる者があれば、その者も吾らのいる
     小田原まで照れて来なさい。

 

     以上である」


註 本目(牧)四ヶ村とは、江戸時代の村名と比定すると、以下の
   ようになる:

     禅馬村: 滝頭・岡村・磯子村  根岸村:根岸村(上・馬場・下・
     芝生・
加曾・立野など)
   石河(川)村: 横浜・中村・堀之内村  本牧村:本牧本郷・北方村

     
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森田 和夫


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コメント 2

村尾鐵男

突然の「玉縄城」で、読者諸氏は唐突感を免れないでしょう。
吾等が仲間の森田氏がこよなく大船の街を愛しており、その大船を家康が謀臣本多正信に与えた玉縄一万石の城下町であたっと私が半ば冗談で言ったのが始まりです。
ところが、森田氏は横浜本牧に近い八聖殿で開催されている勉強会に長く、途切れることなく真面目に参加しており、横浜はもとより大船の一帯にも及んで、その歴史に驚くほどに通じておられます。

入道早雲は「伊勢の新九郎」の俗称で知られており、伊勢で水軍を率いていたと伝えられます。
この伊勢新九郎が名乗った「北條」は鎌倉時代の北條とは係わりがなく、日本史では「後北條」と呼びます。秀吉が大軍を結集して滅ぼした小田原城は「後北條」の根拠地でした。
一方、大船の玉縄城の跡には、今は女子中学・高校が建っており、往時を偲ぶ痕跡や遺跡がまったくありません。僅かに石垣が残っているとの報告もありますが、私は残念ながら未だ見ておりません。
by 村尾鐵男 (2012-05-13 07:44) 

hanamura

玉縄城の石垣、探してみたいです!
by hanamura (2012-05-13 11:19) 

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