須磨歴史散歩:那須與市宗高 -2/3 [和田の泊りより]
吉川英治の新平家物語によれば、宗高はこのあと遅れて屋島に駆け付けた梶原景時に座興に命を掛けたとして叱責され謹慎させられます。
しかし朝廷からは五カ国の荘園を賜るのですが頼朝はこれらを没収し改めて自らの名前で五カ国の荘園を与え 那須野総領とします。
因みに与一と言う名前ですがこれは十一の意味で那須資隆の十一男にあたり十男の兄十郎之隆と二人は源氏についたが他の9人は平家に味方した為に与一が家督を継ぐことになった。これはどちらが負けても家門が残る一種のヘッジであり当時は割と行われていたようです。
そののち梶原景時の讒言により越後に配流されます。
しかし頼朝没後、梶原景時も討伐され本国に帰参します。
そして暫くして病に罹り、那須家の相続を兄之隆に譲り34歳で剃髪して法然の門にはいる。(34歳で没したという説もあるが義経に従ったため頼朝に疎まれ身を隠したと言う)法号禅海宗悟と改め病身をおして源平将士の菩提を弔うために西国の社寺を参拝して回った。
折しも北向八幡宮に参詣され暫くの滞在中に病が重くなりついに体の自由がきかなくなり、現在の墓所の念仏堂を病床として村人が昼夜を分かたず手厚く看病したにも拘わらず薬石効なくついに亡くなられた。
その臨終の際に「自分は今日まで皆々様に長々と篤い看護をして頂きながらも、その御恩に報いることなく永の別れをするのは誠に残念。自分が死んだ後は報恩謝徳の為に必ず、あなた方がこのような難病に掛からぬようお守り致します」と約束されて穏やかに大往生を遂げられたと言われています。
月川@神戸
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