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須磨歴史散歩:那須與市宗高 -1/3 [和田の泊りより]


皆さんへ


GWも終わりに近づき、今日はまた天気が回復したので地下鉄の隣の駅のごく近場に出掛けました。

今日は那須與市宗高です。

源平合戦の屋島で見事、扇の的を射落とした話は有名ですが、それ以外の事は殆ど知られていません。ところが彼の縁の場所と墓所がごく近くにあったのです。


話は前回の義経の話とダブりますが義経一行が鵯越えから一の谷に向かう途中、鷲尾基春なる猟師に出逢い鉄拐山への道案内を求めるとこれより先は平家軍が固めているので一旦戻り白川村から近道があるのでそちらを案内すると言うことで落合山の峰を進行中(現在小生が住んでいる所も落合なので多分この辺り)一天俄かにかき曇り辺り一面霧に包まれ動くことも叶わなくなってしまった。


義経は「かかる時には神仏の助けを願うより外なし」と基春に尋ねると「これより八丁ほど東・妙法寺村に世にも稀な北向き八幡宮があり、位が高く小鳥でさえその上を飛び越すことが出来ない」と言う。


宗高は故郷に於いても八幡神社を信仰していたので北向き八幡と聞くや大地にひれ伏して祈願すると瞬く間に辺り一面晴れ渡り進むべき道が見えてきたので東へ向かい北向き八幡に参詣し厄除け守護のお守りを受けて兜に納め、戦場に臨み一の谷の戦いに勝利を得たのであった。(この辺り前回の田井畑厄除八幡の義経の祈願とダブるような気もするがルートとしては線上に乗るので別の話としておく)


そして屋島の源平対陣となり有名な扇の的の話になるのですが義経は最初、畠山重忠に「あの軍扇を射落とせ」と命じるのですが「もし射損じたならば、我が身の恥ならず、源氏の名を傷つける」として宗高を推挙する。宗高も同様、断るが義経は大いに怒り「鎌倉を出でしより、西国へ向はんとするものは、この義経の下知に背くべからず。


若し異論のあるものは早々鎌倉へ帰るべし」と声を荒げたので、重ねて辞するも悪しからんとて鵜黒の駒に打ち跨り海中に乗り入れるが、馬は関東馬の為に海に馴れておらず寄せ来る小波に驚き狂い足元が定まらず、狙い定める術が無かった。そこで宗高眼を閉じ心を鎮めて八幡宮に祈念し暫くして眼を開けてみると扇は静まったので矢をつがえ、ひょうと放つと狙いあやまたず見事扇を射落とすのですが、これから先話がおかしくなってきます。

                                                                        月川@神戸


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村尾鐵男

戦時中に香川県へ疎開して三度の引越しをしたのですが、東京へ戻る前は屋島の全貌が見える場所でした。屋島の対岸で高松港を右奥に見る場所で、瀬戸内海へ突き出る屋島の突端から付け根の辺りまで、毎日よく眺めて暮らしました。
ところが、那須与一の話は、屋島の側ではそれほど語られていない記憶があります。源氏と平家、やはり瀬戸内海の対岸、摂津から須磨、さらに壇ノ浦の辺りが主戦場だったためでしょう。
by 村尾鐵男 (2012-05-07 18:04) 

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