創作短編(36)新春号: 山川捨松、又は Sutematz -2/15 [稲門機械屋倶楽部]
2012-01 WME36 梅邑貫
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薩長連合の新政府から賊軍として扱われた會津藩は哀れでした。藩主は松平容保(カタモリ)から嫡男の容大(カタハル)への相続が認められたのですが、会津藩二十三万石から下北半島北端の斗南(トナミ)藩三万石へ改易になりました。斗南藩は今の青森県むつ市です。
明治三年(1870年)一月五日、會津から移った四千七百名の旧會津藩士とその家族を合わせた一万七千名によって斗南藩は発足し、咲子の長兄大蔵は明治になってから名を替えて山川浩になり、斗南藩の大参事を務めます。大参事とは家老で、副知事に相当します。
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斗南藩は南部領の北、三戸、二戸の三郡が集められたものですが、南部藩時代からの辺境であり、三万石とは言いながら、実質は七千石しかなく、農地の開墾を続け、教育にも努力を続けたものの生活は日増しに苦しくなりました。
咲子の生活も斗南藩へ移ってからは苦労が続き、十一歳になったある日、母の艶に呼ばれて、前に座らせられました。
尚、咲子の年齢十一歳は昔の数え年ですから、今なら九歳か十歳です。又、母の艶は會津藩で藩主松平容保に仕えた江戸詰め家老の西郷頼母に縁が続く家の出身でした。
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「咲子、言い難いことだが、お前のためだからよく聴いておくれ」
「はい」
母の艶からはいつもの温和な落ち着きが消えて、険しく苦渋に満ちた表情が覗えました。
「咲子、お前も十一歳、もう子供ではないから判るだろうが、この斗南で私達は生きていけない」
「はい」
「咲子、済まないが里子になっておくれ」
里子と言う言葉は今では死語となりました。里子は養子ではありません。生活に窮した家庭が、子供を他人に預けて、食べることと養育を頼むことで、引き受けた人を里親と呼びます。
咲子は溢れそうな涙を必死に堪えましたが、顔を上げることが出来ません。
「どちらへですか」
「箱館の澤辺琢磨様にお願い申し上げて、御承諾をいただいてある」
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