創作短編(36)新春号: 山川捨松、又は Sutematz -1/15 [稲門機械屋倶楽部]
2012-01 WME36 梅邑貫
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時 : 安政年間末期より大正時代の半ば(1860-1919年)
場所 : 會津藩、その他
登場人物: 山川捨松
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安政七年(1860年)二月二十四日、會津若松で生まれた女児は「さき」と命名されましたが、安政七年は三月十八日に万延と改元されたので、山川さきは安政時代のほぼ最後の時期に生まれました。
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山川さきは、会津藩の国家老を務める山川尚江重固(ナオエ・シゲカタ)を父とし、母は艶(エン)であり、二男五女の末娘として生まれたのですが、さきが生まれたときには既に父は亡くなっており、祖父の山川兵衛重英(ヒョウエ・シゲヒデ)が父親代わりとなり、さらにその後は長兄の大蔵(オオクラ)に育てられました。
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間もなく「さき」は「咲子」と名を替え、一千石の禄高を与えられた家老の娘として不自由のない生活を送りましたが、その育ち盛りの楽しい日々が暗転しました。
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西郷隆盛と勝海舟の会談の結果、慶應四年(1868年)四月四日に江戸城が無血開城され、新政府軍はその勢いで北上し、八月二十二日には二本松まで達し、遂には九月二十二日に會津若松城も陥ちて、その若松城を守る大勢の會津藩士に混ざって咲子も勇敢に戦いました。
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「咲子、よく見るんだよ。こうやるんだ」と母の艶が教えたのは、飛んで来る砲弾を、布団を被せて爆発の被害を止めることでした。
若松城の直ぐ外に布陣した新政府軍の砲兵隊は薩摩の西郷隆盛の従兄弟である大山弥助、後の大山巌が率いており、無尽蔵とも思える砲弾を若松城へ撃ち込みました。この頃の砲弾は「焼き玉」と呼ばれ、着弾しても直ぐには爆発せず、激しく燃えながら、暫くしてから爆発しました。
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その爆発を防ぐために、燃えて煙を吐く砲弾に水で濡らした布団を被せるのですが、咲子も母親の艶や他の兄弟姉妹と共に危険な「布団被せ」を続けました。でも、布団を被せるのが遅れると、砲弾は炸裂します。咲子の兄大蔵の妻は布団を被せるのが遅れて砲弾の炸裂を防ぐことができずに咲子達の目前で死亡しましたが、その決死の努力も空しく、會津若松城は陥落してしまいました。山川咲子、八歳のときでした。
明けまして おめでとうございます!
梅邑さん、私のブログに立ち寄ってくださり、ありがとうございました。(*^_^*)私は、山形県民ですよ~!(笑)
「ぼくあずさは地球人」の、西尾さん、堀さん、梅邑さんと、三人のお父様方と、少~し、近づく事が出来た気分です。後は・・・。(笑)楽しみにして、立ち寄ってくださるのを、お待ちしております・・・ね!(笑)さてさて、どなたでしょうか?(笑)失礼しました。(_ _)
勤めから帰ってからのブログですので、時間的に、毎日立ち寄らせていただくことができません。(..;)ですから、まとめ読みになってしまいますが、いろいろ教えてくださいね。私には、難しいブログですが、ゆっくり、理解しながら、どうにかやってます。(笑)
では、今年もよろしくお願いいたします。(o_ _)o
by あゆさこ (2012-01-01 08:30)
昨年拙いブログに訪問いただきありがとうございました、
新年もどうぞよろしくお願いいたします。
by 馬爺 (2012-01-01 18:50)
昨年は拙いブログに訪問いただきありがとうございました、
深淵もよろしくお願い致します。
by 馬爺 (2012-01-01 18:51)