SSブログ

創作短編(27): 芋神様 青木昆陽 -2/8 [稲門機械屋倶楽部]

                          2011-08 WME36 梅邑貫

.

 青木昆陽が旦那と呼んだのはただの旦那ではなく、八丁堀与力の加藤枝直(エナオ)でした。

 読者の皆さんは時代劇で八丁堀の与力と同心にはお馴染みでしょうが、両者共に武士で御家人ですが、厳然たる違いがありました。

与力はその人数を一騎、二騎と数え、江戸の南北町奉行にそれぞれ二十五騎が配され、二百石の俸給と二百坪から三百坪の住まいが与えられました。一方、同心はそれぞれの町奉行に百名から百四十名がおり、二十俵二人扶持で百坪ほどの家に住みました。

 この町奉行配下の与力と同心は八丁堀に固まって住んでおり、よく「八丁堀の旦那」と呼ばれました。

.

「昆陽殿、一度、大岡越前守に会われては如何でござろう」

「加藤の旦那、嬉しきことでございます」

 加藤枝直は町奉行配下の与力でしたが、ただの与力ではありません。伊勢松坂の出身ですが、賀茂真淵に傾倒して学び、歌人としても名が知られており、さらに「公事方御定書」、今で言う刑事訴訟法に相当するものですが、これの起草にも関った経歴の持ち主で、南町奉行大岡越前守忠相が頼りにした部下の一人です。

 その加藤枝直は青木昆陽よりも六歳年上ですが、この二人は親しく付き合っておりました。

「でも、加藤様、私如きが大岡様に」

「うん。心配は無用でござる。それがし、従前より越前守様より命ぜられておってな、街中に優れる者あらば、連れて参れとな。それもな、ただの酔狂ではござらぬ。そもそも越前守様も上様より命ぜられておるのじゃ」

.

 加藤枝直が言う「上様」とは八代将軍徳川吉宗のことで、享保元年(1716年)に就任して以来、享保の改革に邁進しており、武士、町民、農民を問わず、優れた者を起用して世の中を良くするために役立たせました。そのために、町人と接触する機会の多い町奉行に、享保の改革をさらに推し進めるために、埋もれた才能を見つけて自分に報せるよう命じてもいました。


nice!(9)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 9

コメント 2

森田和夫

青木昆陽の墓石を見かけました。
JR目黒駅から目黒不動尊への道すがらでした。
by 森田和夫 (2011-08-21 09:49) 

梅邑貫

森田さん、御指摘の通りです。青木昆陽の墓所は目黒不動、正式には龍泉寺と呼ぶようですが、ここにあります。又、千葉の幕張四丁目には昆陽神社があります。
by 梅邑貫 (2011-08-21 14:04) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。