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創作短編(19):県犬養三千代 -6/8 [稲門機械屋倶楽部]

                                         2011-05 WME36 梅邑貫

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「三千代、もう一つあるのじゃ」

「私のことで、何でございましょう」

「不比等に申し渡したのだが、三千代を私から連れ去ってはならぬとな。三千代はいつまでも我が命婦。不比等の妻になろうが、我が命婦たることは変らぬとな」

「有難きお言葉でございます。それで、不比等様は」

「私はな、不比等の魂胆は見抜いておる。不比等にも三千代が我が命婦であり続ける方が都合が良いはずじゃ。それ故、不比等に異存はなく、素直に頷いておった」

「これからも心してお仕え申し上げます」

「うん。我が孫、珂瑠皇子も三千代のお陰で立派に育った。だがな、未だ目は離せぬ。引き続き頼みますぞ」

「はい」

「乳母はときに実の母を越える者じゃ。いや、珂瑠皇子にとって、三千代は母以上。他の者に替えることはできぬ」

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 それから数日して、県犬養三千代は藤原宮の中に与えられていた居室から藤原不比等の屋敷へ移った。

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 大宝元年(701)、三千代は藤原不比等の妻として光明子(コウミョウシ)を産んだ。

 一方、文武元年(697年)、持統天皇は孫の珂瑠皇子に譲位して、皇子は第四十二代文武天皇として即位した。今や、三千代は天皇の乳母として、宮中の内裏のみならず、朝廷での存在も際立つものとなり、藤原不比等の政治力と相俟って、大きな影響力を発揮するに至った。

 時代は少々先へ飛ぶが、和銅元年(708年)、文武天皇の次の天皇である女帝の第四十三代元明天皇の大嘗祭(ダイジョウサイ)に際して、三千代が天武天皇の時代から仕えた功を讃えられて、杯に浮かぶ橘と共に橘宿禰(タチバナのスクネ)の姓を賜り、これ以降、三千代は橘三千代(タチバナのミチヨ)と呼ばれ、現代まで続く橘姓の開祖となった。


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