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創作短編(17) 大久保利通暗殺と大隈重信 -8/8 [稲門機械屋倶楽部]

                           2011-04 MWE36 梅邑貫

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 斬奸状第二項の「法令漫設し、請託公行を恣(ホシイママ)に威福を求めんとす」は、現代の言葉に置き換えれば、「法令を次々と濫造し、恣意的に便宜を図り、私利私欲を肥やす」となるのですが、大久保利通に限り、その遺産から察して、私利私欲とは無縁であったと言えます。

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 さて、赤坂仮御所内で囚われの身となった島田一郎達の面前へ馬車が走り込んで来ました。乗っているのは斬奸状で対象とする七人の四番目に位置する大蔵卿大隈重信でした。

島田一郎達の六人は大久保利通暗殺現場に短刀を捨ててしまっており、大隈重信を目前にしてただ見過ごすだけでした。

ところが、島田一郎の懐にはピストル一挺が忍ばせてあったのですが、それを島田一郎は忘れていました。島田一郎がいつも懐に忍ばせていたピストルの大きさと形が判りませんが、常に懐に収めていたくらいですから、それほど大きなものでも重いものでもなかったと想像されますが、それ故に懐にピストルがあるのを忘れてしまったようです。ともあれ、大隈重信は危機一髪で難を逃れることができました。

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島田一郎達と福井県に残った仲間が捕らえられて大審院で裁かれ、首謀者島田一郎達六名は七月二十七日に処刑されました。

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 大久保利通の暗殺は「紀尾井坂の変」とも呼ばれますが、西南戦争で不慮の死を遂げた西郷隆盛に次いで大久保利通をも失って、明治維新の主力であった薩長連合は事実上崩れて、長州勢力のみとなりました。しかし、仮に大隈重信までが犠牲になっていたら、明治維新に続く政体は大きく変わっていたであろうとも察せられます。

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 尚、大久保利通が乗っていた馬車は岡山県倉敷市の修験道の寺院である五流尊瀧院に遺族から奉納されて現存します。又、紀尾井坂の変を示す石碑が、現在の清水谷公園に隣接する参議院議員宿舎の近くに建てられております。


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